現在、必要に迫られて「日本音楽」の勉強にターボをかけていますが、ほとんどの本が「ドレミ・五線譜」を用いて解説されているので苦労しています。「五線譜」を読めなくても篠笛は吹けますし、和楽器を演奏することができますが、現行では「五線譜」を読めないと「日本音楽」を勉強する(研究の蓄積を読み解く)ことは不可能に近いです。

それならば「五線譜」を読めるようになれば良い、慣れてしまえば良いのですが、「なんで日本音楽の勉強でドレミやねん!」という精神的な抵抗と、以下に述べるような実際的なリスクのため、今のところ、それを拒んでいます。

「英語」を修得するように「五線譜」もコミュニケーションのツールとして修得すれば良いのでは、と思われるかもしれませんが、中々そうはいきません。

「英語」と「日本語」はまったく異なるモノですから、例えば「英語」をある程度話せるようになったからといって「日本語」の「りんご」を「あっぷりんご」、「にほん」を「にゃぽん」などと口走ることはありません(多分)。

ところが「五線譜・ドレミ」をマスターすると、これに近い現象がおきてしまいます。

なぜならば「日本十二律」も「西洋12平均律」も1オクターブを12に分けるものですので、僕みたいな音痴には良い意味でも悪い意味でも同じように認識されてしまうほど、互いに大枠では似ているものだからです。

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図・拙著『日本の音 篠笛事始め』

喩えるなら、大阪弁バリバリの人間が東京で数年暮らすと標準語の洗礼を受けて、謎の気色悪いエセ関西弁になって帰ってくる、これと同じような現象が起きないか心配なのです。

知り合いのアナウンサーの方、大阪出身なのですが、日頃の会話では、もはや何弁かわかならないイントネーションとなっています(もちろんテレビでは完璧な標準語!)。

つまり、標準語的なドレミを習得する事が、少なからず方言的な日本の音に影響を及ぼしかねないのでは、という恐怖があるのです。

また、僕の周りにも多いのですが、いわゆる「耳の良い」人ほど、いったん「ドレミ・モード」を修得してしまうと、演奏をする時、聞いた時、頭の中で「ド・レ・ミの声」が流れてしまいます。これは拭いたくても拭えないノイズの発生です。香織さんもこのパターン。

このようなリスクを考えると、現行の「日本音楽」の本を読み解くために「五線譜・ドレミ」は必要なのですが、それを修得することに大きな躊躇が生まれるのです。

どないしょ…