7月25日は天神祭の本宮。この日は陸渡御・船渡御とも地車講にご一緒させて頂いての取材です^_^ 10年ほど前にガッツリと見物させて頂きましたが、今一度、天満市場の三ツ屋根地車の勉強中です。龍踊りは移動式芸能舞台である地車で演じられた歌舞音曲の系譜に位置します。
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数日前に地車本体を見聞させていただきました。嘉永五年(ペルリ来航の前年)の製作とされる三ツ屋根の地車(だんじり)。川御座船そのものデス。花鳥霊獣中心の彫刻で、部材に対する彫刻の割合が煩くなく絶妙!下部には御祭神に因んだ菅原天神記と思しき彫刻が施されています。
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大川を渡る船上の龍踊り!
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大川の両岸には立錐の余地もない程の見物人。往古は鉾が流れ着いた場所を御旅所とし、江戸時代は下流の幾つかの場所を固定の御旅所としました。戦後、地盤沈下のため(経済の、ではなく物理的な)渡御船が橋をくぐることができなくなって止む無く上流への渡御に変更。地盤沈下の問題に加えて旧暦から新暦へ祭の日取りが変わっていたことも少なからず影響があったと思います。太陰太陽暦ですと潮の干満のタイミングが毎年同じだったはず。天神祭では船の真上に花火が上がります^_^ この花火はイベントの花火ではなく神賑の一環という位置付けで良いかと思います^_^ JR環状線の電車が橋の上で数分間サービス停車していました!
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天神祭の船渡御!終局も怒涛のダンジリ囃子です^_^ 10年ほど前は一般の奉拝船でしたが、今回は初めて供奉船に乗せて頂きました。乗船時間は約3時間。行き交う船と手打ちを交わします。祇園祭とは一味違ったスケール感です!


船渡御を終え各講は大阪天満宮に宮入。
催太鼓。催(もよおし)は報知の意で渡御列の先頭を行ってカミの到来を告げます。神賑の枠式太鼓台のルーツは神輿の触太鼓。こちらに屋根が付くと布団太鼓など屋根付き太鼓台となります。バチを打つ願人(がんじ)と祇園祭の稚児とは「だんじり舞」(羯鼓稚児舞)というキーワードで遠い遠い親戚の可能性がございます^_^ 願人が地下足袋のまま昇殿を許されるというのは、かつては願人は無垢な稚児が務めて地面に足を着けずに肩車されて移動していた名残だと思われます。 左右にシーソーのように上下させる荒技カラウスは唐臼の動きに似ているからか、烏が飛ぶ動作を表しているからか… 掛声はチョウサ・ヨウサ系のチェーサージャ^_^
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天神講獅子の梵天・獅子・傘踊・四ツ竹^_^ それにしても凄まじい人数です!囃子の旋律は明治中期に伊勢大神楽から習ったもので、道中は馬鹿囃子が吹かれます。かつては歌も歌われました。記憶は定かではありませんが確か…浪花の名物天神さん/御神灯仰ぐお祭に/舞うはお獅子の花の舞/ヨイショ!みたいな歌詞だったと思います(上田長太郎『大阪の夏祭』や『日本民謡大観』に収録)。終局のシンデン(神殿?)では、伊勢大神楽で言うところの「鈴の舞」が吹かれます^_^
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地車がトウヤ(当屋・頭屋)に収められました。江戸時代、地車は宵宮の晩の主役で、提灯に彩られた何十台もの地車が宮入し境内奥に据え置かれ本宮の朝までダンジリ囃子を囃しました。記憶が定かではありませんが、五雲亭貞秀の錦絵「浪速天満祭」にはダンジリ囃子を「ドンチチ」と描写していたはずです。翌朝、神輿の船渡御の乗船場まで供奉し各町に帰りました。そのためでしょう、天神祭以外でも日中でも提灯が付いた状態が正式な飾り付けという地車は少なくありません。

今回は天神祭を内側から見聞する機会を得ることができました。少し地車に詳しくなってきたかもしれません。

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大阪天満宮さま、地車講の皆さま、ありがとうございましたm(_ _)m