コロナの影響で、私も直接・間接的に関わる祇園祭と天神祭も「規模を大幅に縮小しての斎行」となりました。私が生業とする篠笛の出自は祭であり、うちの「篠笛文化研究社(民の謡)」も祭あっての会社です。以下、私の思うところをまとめてみました。祭研究を行なっている立場から、現時点での「評価」のようなものも含めております。
斎籠祭

今年の祭は斎籠祭(いごもりまつり)~ 新型コロナウィルスの影響を克服する祭の力を信じて ~
  
 新型コロナウィルスの影響を受け、日本を代表する夏祭である祇園祭と天神祭が「規模を大幅に縮小しての斎行」となりました。祇園祭では山鉾巡行が、天神祭では催太鼓(もよおし)や地車(だんじり)、獅子舞といった「神賑(かみにぎわい)行事」が中止となります。また、「神事」の中でも多くの見物人が集まる「神輿渡御」も行なわれません。ただし、これを以て「祭」全体が中止になったわけではありません。神職の手によって祭の核心にあたる「神事」は執り行なわれます。その限りにおいて、歴史的には「祭」自体が中断したことにはならないのです。この点の理解と周知はとても大切です。
  
 各地の祭も中止・縮小・日延べが相次いでおり、疫病退散の夏祭は軒並み影響を受けております。それに続く秋季には、放生会(ほうじょうえ)が起源の八幡神系の祭(9月)と収穫感謝祭(10月~11月)が控えておりますが、このままの状態が続くと、開催は難しいのではと推測しております。
 
 祭の社会的機能は「個人と共同体の活力更新」です。日頃は顔を合わせない人たちも、この時ばかりは集まって寄り合い、楽しみ、喜びを分かち合います。少し誇張した表現となりますが、「老若男女総出の富の散財」によって成り立つのが「祭」です。祭は、このような性格を持つ行事ですので、無自覚無症状で感染する疫病の蔓延、その影響での失業や休業が相次いでいる中での実現は、中々難しいものがあります。
 
 祭の中止・縮小・日延べはとても残念ですが、子供たちや若者たちの落胆も察するに余りありますが、この状況下において、前向きに検討できることも少なくありません。例えば、祭の本義や歴史、「神事」と「神賑行事」の在り方について、あるいは、祭の運営方法について、落ち着いて考えることができる絶好の機会とも捉えることができます。神職や年配者が率先して、祭の在り方について向き合う機会を用意することはできるのではないでしょうか。
  
 疫病の原因が科学的に理解される現在においては、神道的な「清祓(きよはらい)」や仏教的な「御霊会(ごりょうえ)」を新型コロナウィルスに対する解決方法の中心に持ってくることはできませんが、「来年こそは必ず<祭>(神事+神賑行事)を行なう」という人々の強い気持ちは、通常の経済的な政策とは異なる次元で強い期待感と推進力を以て、日常生活・社会活動を好転させるきっかけとなり得ます。
 
 「ハレ(祭・非日常)」と「ケ(日常)」との関係を考えた時、まずは「ケ」の安定が大前提です。そして、その「ケ」の安定・向上の大きな原動力が「ハレ」の存在であることが少なくありません。先ほど「ハレ(祭・非日常)」の社会的機能は「個人と共同体の活力更新」と述べました。新型コロナウィルスが蔓延している現在、「人が集まってなんぼ」の「祭」の実行は、活力更新どころか、逆に「ケ」の質を大きく損なう危険性もありますが、アフターコロナ(ウイズコロナ?)においては、「祭」は、そして、「祭を行なうという熱い気持ちは、我々にとって一騎当千の力強い味方になるはずです。
 
 これまでの歴史を振り返っても、凶作や不漁、コレラの流行、昭和の大戦時など、日常生活がままならない時には、「神賑行事」を自粛しつつ「神事」は行なうという柔軟な対応で「祭」を継続してきました。同じ賑わいでも一過性の「イベント」とは異なって、祭は「持続可能性」の高い行事です。新型コロナウィルスの収束後、「祭」の存在は、地域の人々の活力を向上させる大きな役割を果たすことでしょう。そのためにも、今は、耐える時と感じます。
 
 今年の祭は、前向きに、積極的に心と身体を慎む「斎籠(いごもり)祭」であると捉えたいです。
 
令和二年四月二十日
玲月流初代 篠笛奏者 森田玲